桜の花びらが、涙のようにひらりと落ちる。
無風の時には、それはそれは密やかに、やさしく地面へと到達するが、ひとたび突風が吹けば、惑い狂うように、一斉に淡い色の花びらが散ってゆく。
「ここの桜は、今夜には散ってしまうかな」
視界を覆う花びらの乱舞に魅入っていた雪成が、ぽつりと呟いた。
通学路の左右に植えられた桜を見る横顔は、ひとによっては冷たいと思うであろうほどに整っている。年齢を重ねるごとに、その美貌に磨きが掛かってきているようだ。
そんなに綺麗になってどうする。
響也はその横顔を見上げながら、内心ぽつりと呟いた。
昨日、響也は彼と同じ中学校に入学した。家から徒歩十五分ほどの場所にあるその私立中学校は、ふたりの祖父が名誉理事をしている学校だったが、特にそこに入れと言われたわけではない。
雪成は単に家から一番近いから、という意外にもあっさりした理由だったし、響也は響也で、雪成が行っているから、というあまりひとには言えない理由からだ。
響也の父親と雪成の母親が再婚したのは、三年前の春のことだ。難しい年頃の子供を連れての再婚だったが、大した波風もなく、家族はいい形を保ってきたと言っていいだろう。
けれど響也は、最近自分でもマズイなと思う類の焦りを感じていた。
焦りの原因は、隣を歩く「兄」。
まだ、背を追い越せない。視線を上げなければ、雪成の顔を見ることができない。
出会った頃より十五センチも身長は伸びたのに、相手も同じくらい伸びたから、ちっとも追いつくことができないのだ。
そのことを、近頃ひどく悔しく思う。悔しく思ってしまう自分にもまた、焦りを覚える。
紫紺の詰め襟をきっちりと着こなすクールな面立ちの雪成を、道すがらチラチラと見る目も多い。
雪成は小学生の頃からずいぶんと目を惹く存在だった。綺麗な顔ときつい性格に、遠巻きに観察されるような注目のされ方だったが、実際近くで接してみれば、彼が不器用なやさしさを持っていることがちゃんと知れる。
昨日の入学式、雪成は生徒代表として壇上に上った。
生徒会長をしていることは知っていた。壇上で新入生たちへの祝辞を読み上げる、凜とした眼差しに魅入り、綺麗に掠れる声に聞き入る間、新入生たちが何やら囁きあっている声が聞こえた。
漣のように、響也の耳に入ってくるのは、雪成に対しての賛辞。
綺麗だ―――もっと近くで見たい―――なんて名前だろう―――シッ、声が聞こえないじゃない―――……。
校長や理事たちの話は神妙な面持ちで聞いていた生徒たちが、今は雪成の清廉な存在に目を奪われていた。
その瞬間、響也の胸に、言いようのない感情が湧き上がってきた。
見るな、誰も雪成を見るな。雪は俺のだ、――――と。
雪成を誰にも見せたくない。誰にも触らせたくない。
そう思わずにはいられなかった。
そして同時に膨れあがるある種の衝動。
触ってみたい。雪成の、いろんなところに。手で、指で、―――唇で。
衝動は日増しに強くなり、自分はどうにかなってしまったのではないかと思うほど、雪成のことばかりを考えている。
このままじゃいけない。
そう思いながら、それでも雪成を見つめずにはいられない。それがどんなに熱っぽい瞳なのか自分でも気付けないほどに、響也の中は雪成でいっぱいだった。
『……生徒代表、鳴海雪成』
マイク越しの声が響き、響也はハッと我に返った。
『鳴海雪成』。
雪成は、自分の「兄」。
こんな想い、抱いていいわけがない。冷静になって、現実を見て、そうしてこれからも彼の「弟」でいなければ。
もし自分のやりたいように物事を推し進めてしまったら、傷つくひとがたくさんいる。
家族はどう思うか。祖父母は、父は、義母は。
磊落な祖父は驚き呆れるだろう。たおやかな祖母は卒倒してしまうかもしれない。やさしい父は自らを責めるだろう。繊細な義母は傷つき泣き出してしまうに違いない。
そして何より。
雪成が知ったらどう思うだろうか。
『兄弟』になった当初はぎこちなかった関係が、ともに過ごすうちにどんどん親密になってゆき、今ではやわらかな笑顔をよく見せてくれるようになった。
雪成の気の強いところや、響也の歯に衣着せぬ言い方は相変わらずだから、ケンカもよくする。だが根底ではお互いの気性を認め合っているから、すぐに仲直りができる。まるで本当の兄弟のように。
響也は雪成をひと目で気に入った。だがそれがこんなふうに強い感情を引き起こすものだとまでは思い至らなかった。
こんな感情、持つべきじゃないのに。成就するはずもない、たとえ成就したとしても、喜びよりむしろ不安の方が多いはずだ。雪成を辛く哀しい目に遭わせるに違いない。
そんなことは百も承知なのに、三年間積み重ねてきた想いを簡単に消すことはできなかった。
――――消せないのならば、その想いを封印してしまおう。
響也はそう思う。
決して表に出さず、気付かれず、ただただひっそりと胸の奥にしまい込んでおけばいい。
成就なんて望んではいけないのだから。
「響也?」
黙り込んでいる響也を不審に思ったのか、かのひとが見下ろしてくる。
「―――ん。そうだな、ここの桜は、今晩には全部散っちゃうだろうね」
雪成の言葉に頷くが、不審そうな目がなおも響也を見つめてきた。
「でも庭の桜はまだ満開だよな。じいさんが今夜花見をしようって言ってたよ」
毎年この季節になると、庭に植えられた桜を、家族で愛でる習慣がある。
縁側から望める、風情のある枝振りの桜は今ちょうど美しく咲き誇っていた。
「今夜花見をするって?」
初めて聞いたらしい雪成が小首を傾げる。
いつも見せる仕種なのに、そんな何気ないところでも目を奪われてしまうから、自嘲せずにはいられない。
「ああ、一昨日の夜に。そう言えば雪、帰ってくるの遅かったもんな」
「新入生歓迎会の準備でな」
肩を竦める雪成に、会長さんお疲れ様と言いながら笑うと、ふと何かに気付いたように、雪成は響也を見据えた。
「…なんだよ」
見たいし、見てほしいとも思うけど、同時にあまり見ないでほしかった。そんな矛盾を抱えながら、それでも自分から目を逸らすことができないのは、やっぱり捨てられない想いゆえ。雪成が自分のことだけを見ていてくれたらいいのにと、思わずにはいられないから。
「なんか、笑い方が変わったなって」
「そう?」
「父さんに益々似てきたな」
くすりと笑う雪成だが、響也の心情は下降線を辿る。
顔立ちが似ているのは百も承知だが、誰かに似ていると言われるのはやっぱり嫌だった。
父親と雪成は相変わらず仲良しさんだ。趣味嗜好が似ているらしいから、話も弾んでいつでも楽しそうだ。
父親にまで嫉妬してしまいそうだから敢えて考えないようにしているが、自分がどんどん狭量になっていくようで、そんなところにも苛立ちを覚える。
望まない方へ変わっているような、不安定で心許ない自分。小学生の時の方がもっと思い切りが良かったし、ウダウダと考え込むことはなかったのに。
「背も高くなってきたし」
「雪よりまだ十センチ低いけどな」
雪成は面白そうに響也を見下ろしてきた。
「お兄ちゃんだから、簡単には抜かされないさ」
「……」
言ってほしくないことをと、チラリと雪成を睨むと、雪成の髪に花びらが落ちているのを見つける。
足を止めると、雪成も倣い、どうした、と訊いてくる。
す、と手を上げた。
「花びら」
指先で花びらを摘んだ時、さらさらの髪に触れた。
微かに心臓が波打つ。
髪に触れただけで、このありさまだ。
彼の何もかもにいかれてしまっている自分に、もはや溜め息もつけない。
「ありがとう」
口元を綻ばせる雪成を、じっと見ていたいけれど、それを堪えて歩き出した。
「花見楽しみだな。雪、最近忙しかっただろ。たまには花でも見て、ゆっくりするといいよ」
いつもと変わらない声と笑顔と態度で。
「ああ、そうだな」
頷く「兄」を見ないまま、響也は頬に貼りついた笑みを消した。
嬉しくもないのにウソの笑みを浮かべる自分が、ひどくカッコ悪く思えた。
けれど仕方がない。
想いは隠さなければ。
誰にも気付かれないように、ひっそりと、胸の底に沈ませておかなければ。
響也は大切な想いに、蓋をした。
闇夜の中、白い花が淡く滲むように咲いている。
まるで自らが発光しているふうに見える。
幻想的で、神秘的な風景へ、響也はぼんやりと目を向けていた。
居間を開け放し、外に続く縁側に出て家族揃っての花見は、終始和やかな空気の中でおこなわれている。
たくさんは飲めないが酒席は好きだという祖父と、実は酒豪である父親の幹彦、祖父と時折晩酌をする祖母と、顔に似合わずこの場では一番酒に強い義母の眞白の大人四人は、酒も入っていつもより一層朗らかで楽しげな笑い声をあげている。
「俺も飲みたいなあ」
なんだか大人たちはみんな気分よさそうだ。
酒を飲めば今のモヤモヤした気持ちも少しは晴れるのではないだろうか。
そんなふうに思い、ぽつりと呟くと、隣に座る雪成が片眉を吊り上げた。
「未成年が何言ってるんだ。子供のうちから酒を飲んだりタバコを吸ったりしたら、大人以上に身体に悪いし、身長だって伸びないぞ」
ちょっと言ってみただけなのに、真剣にそう言い募る雪成に、響也は苦笑した。
「分かってるって。でも雪が酒に酔ったらどんなふうになるんだろ」
「俺は酒には酔わない」
「飲んだことあるの?」
「ないけど、母さんが強いし、きっと俺も強い」
「…それって思い込み。親が強いと子供も強くなるのか? だったら俺も強いぞ」
その言葉に雪成が何かを言いかけたが、
「入学おめでとう、響也」
すでに酔っ払いと化している祖父が、飲むか? と響也にグラスを差し出してきた。
切り子細工の美しいグラスには、なみなみと日本酒が注がれている。
「ありがとう、じいさん」
「お祖父さん! それ酒だよ…っ」
雪成が慌てて止めたが、グラスを受け取った響也は、モノは試しとばかりに、くい、と口に含んだ。
するりと喉を撫で、胃に落ちてゆく。ふんわりと口の中に広がるのは、何かの果物のような香りだ。
一口目は咽そうになったけれど、ゆっくりと飲み干すと意外にも飲みやすい。日本酒の中でもクセのないものらしい。
一気にグラス半分ほどまで飲んでしまった。
「おお、豪快に飲むな」
笑う祖父に、にやりと笑ってみせた響也は、
「悪くないね。なんか果物の香りがする」
ぺろりと唇を舐めてそう言った。
「響也!」
「雪も飲んでみなよ。なんの果物だと思う?」
残った酒を差し出すと、ム、と眉根を寄せる。
「雪が飲まないなら、俺全部飲んじゃうよ」
「こらっ」
雪成はそう言うなり、響也からグラスを取り上げると、残りを呷った。
「…っぅ……」
やはり咽かけたのだろう、雪成は顔を顰めたが、ごくんと飲み干す。
「ヘーキ? 雪」
表情がかたまった雪成を覗き込むと、二度、三度と瞬きをし、次いで視線を響也に向けてきた。
「結構美味しい。お屠蘇の時に飲むのとずいぶん違うな」
「だろ?」
「この香りはラ・フランスかな。よく似てる」
さすがは雪成だ。香りのこととなるとずいぶん鋭い。
「雪成もいける口か。どれ」
祖父が、トプトプと改めて酒を注ぐのに、さすがに雪成は、もういいよと言っている。そんなふたりを見るともなしに見ていたのだが、なんだか頭がぼんやりしてきて、雪成の声がよく聞こえなかった。
「て、響也? おまえ顔真っ赤…!」
雪成の叫び声に、祖父の脇で祖母や幹彦と話していた眞白がくるりとこちらを向いた。そしてグラスを手にしている雪成を見て、
「お父さんっ、何してるの!?」
ぎょっとしたように声をあげた。
「いや少しくらいはいいだろう。入学祝いで……」
「何言ってるんですか、響也はまだ十二歳ですよ、早すぎます!」
「うわ、響也」
「顔、真っ赤よ!」
祖母の声も聞こえたが、どこか遠くで言っているように聞こえる。
なんだろう、ふわふわした気分だ。
「響也、大丈夫か?」
心配そうな雪成の声に、響也は首を傾げた。
「大丈夫って?」
「なんかフラフラ揺れてる」
「え、そう?」
自分では気付かなかったと、響也はクスクスと笑った。
「何笑ってるんだ?」
雪成が響也の両頬に手を当て、ぐっと近く覗き込んできた。
いつもならば心臓を高鳴らせるような彼我の距離だが、今の響也はふわふわとした現実感のなさが幸いして、ただただ上機嫌だった。
「響也?」
雪成の後ろから幹彦が心配そうに見ていることに気付いて、そちらにもにこりと笑みを向けた。
「う。……響也、部屋に戻って寝よう」
「やだ。まだいる」
「気持ち悪くない?」
「気持ちはいいよ。なんかふわーんてしてるし。なんで?」
「気分が悪くないなら大丈夫かな」
「お酒を飲ませるなんて、お父さん、もしかして酔っ払っちゃってるの?」
「とにかく寝かせた方がいいわね」
大人たちがヒソヒソと交わしている言葉を聞きながら、フラフラ揺れている響也は、前の雪成に向けて、コトンと凭れかかった。
「平気か?」
背中に回る掌がやさしく擦ってくれる。
「平気だよ。でももっと」
力任せに凭れると、雪成は慌てて響也を支えた。
「とにかく響也、部屋に戻ろう」
「やだ。雪といる」
背中を擦る掌は止まることなく絶えず擦ってくれている。響也は雪成の背に腕を回し、ぎゅう、と抱きついた。
「分かった。じゃあ俺も一緒に行くから、部屋で寝よう」
「雪も一緒?」
「一緒だから。ほら」
ぽんぽん、と背中を叩かれ、雪成が一緒ならいいかと響也はあっさり腕を離した。
「立てる?」
うん、と頷きつつ立ち上がったが、フラリと揺れてしまうところを雪成に支えられた。
「じいさんばあさんかあさんお休み」
支えられながら振り返り、心配そうな祖母と眞白、ひとりだけにこやかな祖父に手を振って歩き出した。
左側では雪成が、右側は幹彦が手を貸してくれている。
「雪成も飲んだんだろう?」
「うん、でもグラス半分だけだよ。響也も同じくらいしか飲まなかったのに」
「いや、あれは喉越しがいいから度数が低いように思われるけど、実際は結構度数があるんだよ。響也が弱いんじゃなくて、雪成が強いんだね」
「ラ・フランスの香りがした」
「美味しかった?」
「うん」
「じゃあ雪成は、果実香が綺麗に表れる白ワインなんか好きかもしれないね。美味しくて抜群に香りのいいワインがあるんだよ」
「へえ。じゃあ今度飲ませてくれる?」
「それはダメ」
「義父さんが勧めたのに」
「…確かに。未成年に酒を勧めちゃマズイな」
くすくすと笑う幹彦の声と、そうだねとやっぱり笑う雪成に挟まれた響也は、半分眠りに足を突っ込んでいた。
「響也、雪成の腕を離して。ベッドに横になるんだ」
幹彦の声が聞こえてきたが、意味が分からなかった。
自分が何かを掴んでいるという自覚がなかったからだ。
「義父さん、いいよ。響也が眠るまでいるから」
「そう?」
「うん、お休み」
お休み、と幹彦の声の後、襖の閉められる音。
「おまえ真っ赤だよ。だからよせって言ったのに」
小さな溜め息が聞こえて、響也はその方へ身体を摺り寄せた。
「響也?」
「……雪」
ぎゅっとしがみついて、そのままベッドに倒れかかった。
「わっ」
諸共ベッドに転がったが、響也はしがみついたまま雪成を離さなかった。
「この酔っ払いが」
雪成は呆れたようにそう言いながらも、響也のしたいようにさせてくれる。きつく抱きついてもその腕を払ったりはしなかった。それどころか再び背中に腕を回し、先刻のようにそっと擦ってくれる。
やわらかく動く掌が嬉しく、同じくらいなんだか泣きたいような気持ちもする。
「眠くなってきた?」
「眠ったら、雪、出て行く?」
まるで子供が拗ねているような言い方だ。みっともないと普段の響也ならば思うけれど、酒に酔った今は、ただただ素直に、自分がしたいことをし、言いたいことを言ってしまう。
ふ、と笑う気配がした。
「出て行かないからもう寝ろ」
ぽんぽん叩くやさしい掌。響也はただそれだけで安堵してしまう。
「酔ったらずいぶんかわいくなるんだな」
笑み混じりの声が聞こえたが、返事をすることはできす、ひたひたと押し寄せてくる眠りの波に身を委ねた。
目が覚めたのは、真夜中だった。
ベッドヘッドに置かれたスタンドが、淡い光を灯している。
普段は真っ暗にして眠る響也は、半分眠ったままゴソゴソと腕を伸ばしてスタンドのスイッチを切ろうとした。だが何かが自分を拘束していることに、ふと気付く。
「……」
雪成に抱きしめられている。向き合って胸に抱かれているような形だ。
「ゆ、き?」
そろりと視線を上げたら、健やかな寝息を立てて雪成が熟睡していた。
途端、昨夜のことが思い出された。
祖父が勧めた酒を飲んで、酔っ払ってしまったことを。
一瞬マズイことを口にしなかっただろうかとヒヤリとしたが、自分が言ったことしたことはちゃんと覚えていた。
駄々を捏ねるように、雪成から離れたくないと言った自分が少し恥ずかしい。
雪成を起こさないよう、ゆっくり慎重に身体を動かし、その顔を近くで見つめる。
整った顔立ちが、息が触れるほどに近くにある。
鼓動が俄かに速くなる。
ドキドキとうるさい心臓は、何かを急かしているかのようだ。
――――触れたい。
三年前にも一度雪成とこのベッドで眠ったことがある。
あの時は自分が捻挫をして、それに気付いた雪成が治療をするために部屋まで来てくれた。
そして狭いベッドの中で身を寄せ合って眠った。
雪成のあたたかな身体が動くたびに少し触れて、理由の分からない高揚感が響也を満たした。
その時には高揚感が何を意味しているのか分からなかったが、今なら分かる。
雪成が好きなのだ。
触りたい、唇に触れてみたい。指ではなく、唇で。
子供の頃、響也は彼の唇がとても美味しそうに思えた。
触れたいと思い、そうして指で実際に触ってしまったことがある。けれど唇での接触はいけないことと諦めたのに。
子供の時には堪えられたことが、今は雪成に近付くのを止められない。
こんなことをしてはいけないと分かっているのに、響也は自分を止める術を持たなかった。
ただ雪成に触りたいと、その想いに囚われて、身動きが取れなかった。
これまでで一番近くに唇を寄せる。だが最後の一ミリで、どうしても触れることができない。
唇の震えが、全身を駆け巡った。
やっぱりしちゃダメだ。
雪成が知らない間に、自分の都合でしちゃ……。
けれどこんなチャンスはもう二度とないかもしれない。
今ならば、雪成に知られずに触れることができる。だからしてしまえ。
ぐるぐると相反する想いに巻き取られ、響也はそこから退くことも進むこともできなかった。
だが響也は、雪成が小さな寝息をたてた時、思わず身体を退かせた。
一度退いてしまえば、そうしたいと願った心がプツンと途切れる。
「……雪」
唇で触れてはダメだ。
響也はギリギリのところで想いを引き剥がす。
「ん…?」
雪成の瞼が微かに震え、そうしてふ、と開かれた。
「響?」
名を囁かれた響也は、ぞくりと背筋を震わせた。
まだ覚醒はしていないらしい雪成の瞳は茫洋としていて、普段感じる凜とした涼やかさが見えない。その代わりにトロリとしたどこか艶めいたものを見つけてしまい、響也は慌ててさらに身体を離した。
ところが雪成の腕がそれを阻み、再びぐいっと引き寄せられてしまう。
「ゆ、ゆき?」
「動くな。寒いだろ」
「ゃ、あの、雪?」
「まだ夜中じゃないか。寝ろ」
そう言って一層ぎゅうぎゅう胸に抱きしめられてしまうから堪らない。
離してと焦って声で言いかけ、けれど口を噤んだ。響也の恋心がそうさせたのだ。
だって触れていたい。
こうして抱きしめられて、響也の恋は歓喜の声をあげている。
心臓の音が上擦るようにドキドキと速い。同時に胸の底から、じわじわと染み入るように甘いものが湧き上がってくる。
甘くて、でも痛みもあって。
このままふんわりと蕩けてしまいそうな感触。
離れたくない。
ずっとこうして触れていたい。
蓋をしたはずの想い。
なのにやっぱりふとした拍子に溢れ出してしまう。
体温や吐息すらも感じられるほど近くに雪成がいる。胸の底がジリジリと痛みを増した。
この、甘く疼く痛みを、響也はこれから抱えていかなければならない。
想いは正しいものではなく、罪となって響也をこれから長く苛むのだろう。
それでも、甘露にも似た雪成への想いを捨てることはできない。
切なさを、罪を抱えて。
響也は雪成を好きでいることを、自らに許した。
end.
|